キリストの十字架の意味

 

罪とは

 

「困った時の神頼み」とよく言われます。この世の神々とは、困ったときに頼む神です。家内安全、良縁、安産など、不安や苦境があれば、人は救って欲しいと願い、その問題を救ってくれるという神々の所へ頼みに行きます。しかし、キリスト教の救いとは、そのようなものではありません。この世の諸問題からの救いではなく、私たちの根本的な問題からの救いなのです。

 私たちは学校で、人間は獣から進化した生き物と教えられます。しかし、獣と人との間には決定的な違いがあります。その違いとは、人は良心を持ち、善悪を知っており、罪を犯すということです。

 たとえ獣が人を殺したとしても、その獣を憎んで駆除はしても、裁判にかけることはしないでしょう。動物に善悪はないので罪にはならないからです。しかし、人は罪を犯します。そして罪が正されなければ、人の心には怒りが湧くのです。なぜでしょう? 正義や公平が犯されるからです。そこで罪をつぐなわせるために裁判をして罰を与えます。なぜなら罪が罰によってつぐなわれないと、公正が犯されるので、私たちの心は納得できないからです。このように公平、正義が私たちの心に植え付けられているのはなぜでしょう? 進化論では答られません。人と獣の決定的なこの違いを説明できる科学はありません。

 

 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世1章27節)

 

 人と獣の決定的な違いの理由は、人は「神の似姿」として、創られているということです。神は義なるお方なので、神に似た人間が「人として」正しく生きるには、神のように正義•公平を守る必要があります。ですから私たちの心には生まれる前から、神から与えられた良心があり、律法が書き記されているのです。そこで人は、公平や正義が犯されると怒りを感じるものなのです。人は元々、そのように生きるよう創られていたのです。 

 

「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」(ローマ人への手紙2章14−15節)

 

 どんな人も、良心があるゆえに罪を認識します。しかし、人は良心に従えずに悪を行ってしまいます。たとえ実際に犯罪を犯さなくても、心の中では罪を犯してしまいます。なぜなのでしょう? 動物には悪意も憎しみもありません。よって罪もありません。だのになぜ人間にだけ、そのような罪の性質があるのでしょう? 人間は神の似姿のはずなのに、どうしてこんなことになったのでしょう?

 先に学んだエデンの園にその答えがあります。人がまだ堕落する前、人は神の支配下のエデンににいて、神の友として、 地の支配者として、 人として正しく生きていました。また、エデンにはいのちの木があり、それを食べている限り、死ぬこともありませんでした。

しかし、悪魔の言葉に従い、 神の命令を破ってしまった時、人の心は堕落してしまったのです。悪魔の言葉に従ったこと、これが原罪です。 それ以来、人の心の中には罪が入り込み、常に良心と罪が闘う戦場になりました。そして、死が入り込み、人は失われました。 

 ですから、人は罪ある者となったので、もはや正しく物事をさばくことができません。罪という自己中心性のために、物事を公平に見る力を失ったのです。ですから人は、人として正しく生きようとしても必ず失敗するのです。自分の真のアイデンティティを失ったために、人はむなしくなったのです。そして、人は労苦して生き、遅かれ早かれ老いて死にます。一瞬幸せを感じても、青い鳥のように、実際につかむと色あせます。ですから、この世で幸せを求めてもむなしくなるのです。

 哀れなことに、人は罪を犯したために悪魔の支配下に入れられ、そこから自力で脱出することができなくなりました。なぜなら自分の罪を自分では購えないからです。たとえがんばって善行を積んでも、それは当然の行為であって、罪ほろぼしには全くならないのです。

しかし、神は人を愛していても、罪人をそのまま赦して、神の元に戻すことはできません。なぜなら神は義なるお方だからです。神が人を愛しているからといって、不義な者を義と宣言すれば、義が曲げられてしまいます。もし裁判官が愛する息子の罪を、息子を愛しているからといって裁判で無罪にしたら、公平さを欠くと言われるでしょう。私情をはさめば、正義は曲がってしまいます。

 ではどうすればよいのでしょう? 罪を犯したら、もう滅ぼすしか他に方法はないのでしょうか? しかし、神は人を愛しておられたので、ある方法で人を救うことにしてくださったのです。

 

原始福音

 

 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世3章14,15節)

 

 神は、アダムとエバの堕落の後、すぐにこの約束を下さいました。これは「原始福音」とも呼ばれる箇所です。

 蛇の中にいたのはサタン(神の敵)です。サタンは悪魔です。サタンは神が人間を愛していることをよく知っていました。そこで人間を誘惑し、罪を犯させ、自分の支配下に入れ、神から引き離したのです。こうして罪を犯した人間は、サタンと同じ立場となりました。サタンは人質を取ったようなのものです。その上サタンには、もっともな正しい言い分があります。人は神を裏切り、不義を行ったのです。いくら神が人を愛しているからといっても、不義な者はもう受け入れられないのです。神の性質は義ですから、もし不義な人間をそのまま受け入れたら、神も不義になってしまいます。サタンの言い分は正しいのです。ですから、神はサタンの下にいる人間を救いたくても全く手出しができません。人もまた帰りたくても帰れないのです。サタンは神に一杯食わせ、勝ったと思ったでしょう。手出しのできない神を笑ったことでしょう。しかし、神は女の子孫の勝利と、サタンの滅亡の約束をしたのです。

 神は女の子孫から「彼」を遣わし、サタンを滅ぼすと約束しました。サタンはその「彼」を傷つけますが、それは「彼」のかかとを傷つける程度で致命傷にはなりません。「彼」は普通の人ではありません。サタンから人を救う「救い主」なのです。

 アダムとエバはその約束を胸に生きたことでしょう。エバの子セツはその信仰を受け継ぎ、その子孫は神の御名によって祈り始めました。しかし、カインの子孫は神に反逆しました。

 以来、「兄弟殺しのカイン(蛇の子孫)とセツ(女の子孫)」、「この世の人(蛇の子孫)とセツの子孫ノア(女の子孫)」に代表されるように、人間は、不信仰者(蛇の子孫)と信仰者(女の子孫)に分かれ、その間には常に敵意があるのです。

その後、神の計画は時代を経て進んで行きます。神はノアの子孫のセム族のアブラハムを選び、その子孫のイスラエル民族と契約を結び、神の民として立て、全世界に向けて神ご自身を現したのです。そして、そのイスラエル民族の子孫から「彼」が現れます。その「彼」こそが救世主キリストなのです。

 

キリストの意味

 

 「イエス・キリスト」の名前を知らない人はいないでしょう。しかし、この名前の意味を知る人はあまりいません。多くの人は「キリスト」を単なる「みよじ」だと思っているでしょう。しかし、実はみよじではなく称号なのです。「キリスト」は、もともとはヘブライ語の「メシア(ハ•マシーアハ)」のギリシャ語訳です。ですから、キリストとメシアは同じ意味で、王、救い主を表す称号なのです。

 

 エッサイ(ダビデの父)は人をやって、彼(ダビデ)を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。(サムエル記第一 16章)

 

 「キリスト」という称号は、「油注がれた者」を表します。古代イスラエルでは神が王を立てる時に、油を注ぎました。預言者サムエルが、神に命じられてダビデに油を注ぐと、その日から、ダビデは「キリスト(油注がれた者)」となり、神の霊が下り、イスラエルを敵から救う救世主となりました。ダビデはキリストのひな形です。

  つまり神が救世主として任命した者が「キリスト(油注がれた者:メシア)」であり、イスラエルの王なのです。ですから、「イエス・キリスト」とは、「油注がれた者•イエス」「イエスは王なる救世主」という意味なのです。

 

イエスの名前の意味

 

 「イエス」という名前は、ヘブライ名「ヨシュア」のギリシャ語訳です。旧約聖書はヘブライ語で書かれ、新約聖書はギリシャ語で書かれていたため、日本語に翻訳すると全く違う呼び方になっていますが、実はヨシュアもイエスも同じ名前なのです。

 もともとイエス(ヨシュア)という名前は御使いガブリエルによってつけられました。なぜその名がつけられたのか、福音書には説明されていませんが、ユダヤ人ならすぐにピンと来たので、説明する必要がなかったのでしょう。しかし私たちには説明が必要です。

ヨシュアとは旧約聖書の「ヨシュア記」に出てくる有名な指導者です。モーセに率いられエジプトを脱出し、荒野を40年さまよったイスラエルの民を、約束の地カナンへと導き入れたのはヨシュアです。このヨシュアはイエス•キリストのひな形です。旧約のヨシュアが約束の地へ民を導き入れたように、新約のヨシュア(イエス)は神の国に民を導き入れる先導者になるのです。

 「ヨシュア」とはヘブライ語で「神は救い」という意味です。ちなみに、ユダヤ人クリスチャンはイエスのことを、そのまま「ヨシュア•ハマシーアハ」と呼んでいます。(「ハ」はtheと同じです)

 

モーセのような預言者

 

 わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。(申18章18節)

 

 イスラエル民族が神と契約を結ぶ際、仲介者となったのはモーセでした。神はモーセに律法を与え、イスラエル民族の中から、モーセのような預言者を起こすと預言されました。このモーセのような預言者とは、キリストのことと認識されて来ました。モーセとイエスには様々な類似点がありますが、特筆すべき点は神と民との仲介者という点です。律法には、イスラエルの民は彼に聞き従わなければならないと命じられています。

 

イエスがキリストである証拠の預言

 

 もしイエスが、ただの善良な人間で、理想を説いたために迫害され、十字架につけられたのなら、ある意味、イエスはただの悲劇の失敗者です。多くの人はキリストをそのような単なる悲劇の善人と捉えてしまいます。

 しかし、もしそうなら、イエスを神の御子、救世主キリストとして信じる意味はないはずです。では、なぜキリスト教徒はイエスを神の御子として信じるのでしょう? イエスがキリストである根拠はどこにあるのでしょう? それは数々のキリスト預言の成就にあるのです。

 実はイエスが成し遂げたことは、すべて前もって旧約聖書で預言されていたことでした。イスラエル民族には、数多くの預言者たちが世代を超えて現れました。それぞれ違う時代に生き、違う場所に生まれた預言者たちでしたが、共通してキリストの預言を数多く残していたのです。イスラエル民族は、その預言の意味が分からなくとも、その預言書を何世代にも渡って守り通し、保存して来ました。イエスは、そのキリスト預言を成就したのでキリストと認証されたのです。その内のいくつかを見てみましょう。

 

キリストの生誕方法

 

 クリスマスになると、馬小屋で処女マリアに抱かれている幼子キリストの絵を見たことがあるかもしれません。イエスは処女マリアから生まれました。処女降誕の奇跡だけを聞くと、キリスト教はおとぎ話を信じるおめでたい宗教だと思うかもしれません。しかし、処女が救い主を産むという預言は、キリスト生誕の約700年前に、預言者イザヤによって預言されていたのです。預言者イザヤは次のように預言しました。

 

 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ書7章14節)

 

「インマヌエル」とは、ヘブライ語で、「神我とともにあり[イム(with)アヌ(us)エル(God)]」という意味です。 それはキリストの性質を表します。この男の子はただの普通の子ではありません。

 

 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9章6節)

 

ダビデの子孫

 

  神はイスラエル民族に、モーセのような預言者が現れると預言されていましたが、その方が後に、どの部族のどの家系に出るのかも預言していました。キリストがダビデの子孫から生まれるということは、他の預言者たちも数多く預言を残していますが、そのうちのひとつを紹介しましょう。

 

 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。(イザヤ書11章)

 

 エッサイはユダ族であり、ダビデ王の父でした。預言者イザヤの時代、ダビデ王はすでに過去の人でした。ですから、この預言はダビデ王のことを指したものではありません。

預言者イザヤは、来るべきキリストが、ユダ族のエッサイの家系、ダビデの子孫に生まれると預言したのです。その預言が成就したのは実に約700年後でした。イエスの母マリアも、後に夫となったヨセフもダビデの子孫です。イエスはダビデの家系から生まれました。これもキリストの預言の成就です。

 

キリスト生誕の場所

 

 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ書5章2節)

 

 預言者ミカは、キリスト生誕の約800年前に、キリスト生誕地はベツレヘムであると預言しました。ですから、真のキリストは、絶対にベツレヘム生まれでなければなりません。もともと処女マリアはナザレ生まれの人間でした。しかし突然、ローマ皇帝アウグストゥスの住民登録命令が出て、ダビデの家系の者は、ダビデの町ベツレヘムへ登録に行かねばならなくなったのです。そこで、婚約者のヨセフと、身重だったマリアはナザレを立って、ベツレヘムへ行ったのです。ローマ帝国の命令で仕方なく行ったのですが、それがキリスト預言を成就させました。その次第がルカの福音書にあります。

 

 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグスト(アウグストゥス)から出た。これはクレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼はダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。(ルカの福音書2章)

 

イエスの洗礼と奇跡のしるし

 

 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ 3章13-16節)

 

 イエスは30歳になった頃、キリストとして宣教を開始します。その最初に行ったことは、バプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けることでした。イエスが洗礼を受けると、天から聖霊が注がれたのです。それから、故郷のナザレに戻り、ユダヤ人会堂(シナゴーグ)に入りました。

 

 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」

 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4章1-21節)

 

 イエスはイザヤ書61章を朗読し、ご自分こそが、この預言に書かれた「油注がれた」キリストであると公に宣言され始めました。

 ダビデは預言者サムエルからオリーブ油を注がれ「キリスト」になりました。その日以来、主の霊が激しくダビデに下りました。同じように、イエスはバプテスマのヨハネによって洗礼を受け、神から聖霊を注がれ「キリスト」になり、その日以来、御霊を無限に受けられるようになったのです。

 

 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。(イザヤ35章3-6節)

 

 その日を境に、イエスは宣教を始められ、各地を巡り、福音を宣べ伝えながら、盲人、耳の聞こえない者、足のなえた者、口の聞けない者たちのいやしを始められました。このイザヤ書にあるようないやしを実際に行えたのは、後にも先にもイエス•キリストただひとりです。イエスの病人のいやしの記述は福音書のあちこちにあります。イザヤ書を知っていたユダヤ人たちは、イエスがイザヤのキリスト預言を成就しているのだと分かりました。

 

 それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。すると、大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをおいやしになった。それで、群衆は、おしがものを言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て、驚いた。そして、彼らはイスラエルの神をあがめた。(マタイ 15章30-31節)

 

宣教地ガリラヤ

 

 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(イザヤ9章1,2節)

 

 イエスの主な宣教地はおもにガリラヤ地方でした。ガリラヤ地方は混血が多く、エルサレムから見れば異邦人と同等に見下されていました。しかし、そんなへんぴな地方に向けて、イエス・キリストが宣教をしたのです。それはこのイザヤの預言の通りでした。絶望していたガリラヤの人々はキリストという光を見たのです。

 

過越(すぎこし)の神の小羊

 

 イスラエルの歴史については、後で詳しく学びますが、かつて、イスラエルの民がエジプトの苦役の中で苦しんでいた時、神はモーセを遣わして、民をエジプトから脱出させました。その次第は旧約聖書の出エジプト記に書かれています。

 ある日、モーセはイスラエルの民に、子羊をほふって、その血を家の門柱に塗るように命じます。民は言われた通りにしました。その晩、神のさばきがエジプトにやって来たのです。しかし、神のさばきは、門柱に子羊の血を塗ったイスラエルの家の前は過ぎ越し、血が塗られていないエジプトの家にだけ下りました。子羊の血の犠牲がイスラエルの民を救ったのです。

 モーセは、神のさばきが過ぎ越されたことを記念し、「過越(すぎこし)の祭り」を毎年行うように民に命じました。この子羊の身代わりの犠牲は、実はキリストのひな形でした。

神は、御子キリストを人の罪の身代わりの小羊にし、その罪の罰をキリストに下して、不義なる者を義とし、サタンから解放する方法を取られたのです。

 

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)

 

子ろば

 

 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。

 見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ書9章9節)

 

 人の考える救世主のイメージは、昨今の映画のヒーローのようなものではないでしょうか。正義のヒーローのイメージは、格好よく白馬に乗って登場し、圧倒的な力で巨悪を打ち倒す強い人です。それは2千年前のイスラエルの人々も同様でした。しかし、預言者ゼカリヤは、キリスト生誕の約500年前に、イスラエルの王であるキリストが、柔和に子供のろばに乗ってエルサレムにやって来ると預言しました。

 

 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」

 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。(マタイによる福音書7章)

 

 ローマ帝国の圧政に苦しんでいた民は、イエスがさっそうとエルサレムに入城し、キリストの巨大な力でローマ軍を木っ端みじんにしてくれるのを待ち望んでいました。なぜなら、そのような恐ろしい力を持つキリストの預言も他にあるからです。しかし、その力を使うのは、この時ではなかったのです。この時のキリストには、神からの特別な使命がありました。それはさばき主としてではなく、人の罪のための身代わりの小羊としての使命です。人をサタンの支配から解放するため、障害となっている人の罪を消すため、キリストはご自身を捧げようと生まれて来たのです。人々の期待とは裏腹に、ろばにのって柔和にエルサレムにやって来たイエス。しかしそれはゼカリヤの預言だけでなく、次のダニエルの預言の成就でした。

 

イスラエルの70週

 

 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。(ダニエル9章24-26節)

 

 預言者ダニエルは御使いから、イスラエル民族とエルサレムについて定められた70週の預言を受けました。7週と62週を足すと69週です。計算すると(ユダヤ歴では1年は360日)、エルサレム再建命令から483年後にキリスト(油注がれた者)が来られ断たれるというのです。確かに、その預言通り、その483年後にイエスがエルサレムに入城したのです。そして十字架にかかって断たれ、地上から昇天しました。その後「来るべき君主の民」ローマが町と聖所を破壊します。そして、イスラエルの歴史時計は最後の一週を残して止まるのです。残った最後の70週目については後で学びます。

 

イザヤ書53章

 

 旧約聖書のイザヤ書53章には、不思議な預言が書かれています。いわゆる「苦難のしもべ」と呼ばれる聖句です。このイザヤの預言は、キリスト生誕の約700年前に書かれたものでしたが、長い間意味も分からず、保存されて来たものでした。

 

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、

私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。

だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。

しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。

ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、

彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。

彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。

彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。

彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。

もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら

彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。

わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう

それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、

彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。

彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。

彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする

 

 ここに書かれている苦難のしもべは、罪がなかったにもかかわらず、不当な裁判を受け、黙して刑罰を受けます。彼は激しい苦しみを身に受けて殺されるのですが、彼が本当は何をしているのかを、誰一人悟れないというのです。そのしもべは、何と人の罪の身代わりとなっていたのです。

 イエスは捕らえられ、律法学者たちに訴えられ、ローマの裁判にかけられますが、罪が何一つ見つかりませんでした。しかし、イエスは何も反論せずに黙って裁判を受けました。民衆は、ローマを倒さない無力なキリストに失望し、指導者たちの扇動に乗り、キリストを十字架につけるよう要求しました。暴動を恐れたローマ総督ピラトは、イエスには罪がないと知りながら、十字架につけることを了承したのです。 

 十字架の上で苦しみもだえるイエスが一体何をしていたのか、誰も分かっていませんでした。イエスは、この苦難のしもべのように、ご自分のいのちを人々の罪過のための犠牲に差し出し、多くの人の罪を負い、その人たちを義とするために、ひどい苦しみを受けていたのです。それが「神のみこころ」であり、それが神の命令でした。そしてキリストは、神と人とを愛するがゆえに、その命令に黙して従いまいた。

 苦難のしもべは、苦しんだ末、そのいのちを死に明け渡します。神はその神への完全な従順の行いの故に、しもべに多くの人を与え、末永く子孫を見せるといいます。彼は死んだままではなく、復活するのです。まさしくこれはイエス•キリストの十字架と復活の預言でした。

 

詩編22篇

 

 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マルコによる福音書15章)

 

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」

 十字架の上で、イエスが発したこの言葉を聞くと、神に向かって絶望を叫んでいるように見えるかもしれません。多くの人はこの言葉を聞いて、イエスは残念ながら失敗したのだと思います。弟子たちでさえそう思いました。しかし、実はこれはイエス自身の嘆きの言葉ではなく、旧約聖書の詩編22篇の一篇なのです。それはユダヤ人なら誰もが知っている有名な聖句でした。

 

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。

遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。

夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、

イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

私たちの先祖は、あなたに信頼しました。

彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。

彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。

彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。

しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。

私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。

「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。

彼のお気に入りなのだから。」

しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。

生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。

母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。

どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。

数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。

彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。

私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました

私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。

私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。

あなたは私を死のちりの上に置かれます。

犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。

私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。

彼らは私の着物を互いに分け合い私の一つの着物を、くじ引きにします。(詩篇22篇)

 

  この詩篇22篇の作者は、キリスト生誕の約千年前に生きていたダビデ王です。ダビデ自身は老衰で亡くなりました(列王記第一2章参照)。ですから、この預言の内容はダビデ自身のことを語ったものではありません。ダビデは自分の子孫から出るキリストについて預言していたのです。

 イエスは十字架上で、この詩篇22篇の一節を叫び、この預言が、今まさにご自分の上に成就しているということを、公に宣言していたのです。ダビデから千年を経て、これほどの精度で成就されることは、まさに神のわざとしか言えません。

 実際に、イエスは手足を引き裂かれ、釘打ちにされました。十字架刑の恐ろしい所は、骨が体の重みで脱臼するのです。また一晩中の暴行で疲弊していたため、猛烈な乾きが襲いました。人々はそんなキリストに罵詈雑言を投げつけました。そして、刑を執行したローマ兵は、実際にキリストの着物を「くじ引き」にしたのです。その様子は福音書に生々しく書かれており、この預言成就の精度の確かさを物語っています。

 

 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。

 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(マタイ27章35-節)

 

十字架

 

 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。(申命記 21章22-23)

 

 律法では木にかけられた者は神にのろわれた者です。キリストは十字架につけられ、人類の罪に対する神の怒りを身に受け、のろわれたのです。誰よりも、愛する御子を人の身代わりに捧げた神ご自身が、この十字架で一番苦しまれていたことでしょう。それはアブラハムが愛するイサクを捧げた姿のようです。

 

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)

 

 キリストは十字架の上で、最後に「完了した」と叫ばれ、息を引き取りました(ヨハネ19章)。人々の目には、無力でぼろぼろになったイエスの姿は、ただのみじめな敗北者に映ったことでしょう。しかし、神の目から見れば、キリストは十字架の上で、神の命じた人類の贖罪を完了した成功者だったのです。キリストは最後まで神への従順を全うし、悪魔に完全勝利したのです。 こうして、悪魔はキリストを信じた者たちを解放しなければならなくなりました。その者たちの罪の罰をキリストが身代わりに引き受けたからです。

 神がキリストをこの世に与えたのは、あなたを愛しているからです。あなたを救い出したいからです。

 

  しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます

 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。(ローマ人への手紙5章8−11節)

 

 キリスト教の救いとは、神がエジプトからイスラエルの民を脱出させ、約束の地へ導いたように、神が悪魔の手から愛する人たちを脱出させ、神の国へ導くことにあるのです。

 人は死後、生前の罪すべてを暴かれ、神にさばかれます。その時、子羊の血を門柱に塗ったユダヤ人が神のさばきを過ぎ越されたように、キリストを信じる者にはその血が適用され、神のさばきが過ぎ越され、義となるのです。サタンにはもはや言い分がありません。

 

キリストの復活と昇天

 

 そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。(マタイ 12章39,40節)

 

 これは十字架にかかる前のイエスと律法学者たちとの会話です。預言者ヨナは、敵国アッシリアの首都ニネベに悔い改めを説くよう遣わされた預言者でしたが、神の御顔を避けて船で逃れようとしました(ヨナ書)。すると大嵐に会い、大魚に飲み込まれ、その腹の中で三日三晩過ごした後、吐き出されました。

 イエスは、ご自分はヨナの奇跡のように三日目に復活すると前もって預言していました。しかし、弟子たちでさえ、その意味が分かりませんでした。実際にイエスが十字架につけられた時、弟子たちはあわてて逃げ出してしまいました。しかし、イエスは預言通りに三日目に復活し、弟子たちの前に現れたのです。神は勝利者イエスを復活させたのです。

 

 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

女たちはイエスのみことばを思い出した。(ルカ24章1-8節)

 

 こうしてイエスは、数々のキリスト預言を成就しました。だからイエスはキリストと認められ、信じられているのです。

 このように、神は人を愛していたので、悪魔から救出するためにキリストを遣わしました。キリストは十字架で贖罪を成し遂げ、信じる者を悪魔から奪還したのです。神は御子キリストを信じる様にと、今も懇願しておられます。神は人に十字架を示し、我が子を信じなさい。そうすれば、罪をすべて赦そうと和解を申し出ているのです。十字架は神の愛のしるしです。

 

福音の宣教

 

 復活したキリストはその後、40日間弟子たちに現れました(使徒の働き1章)。キリストは弟子たちに福音の宣教を命じました。今度はキリストから教会に使命が与えられたのです。

 悪魔の支配下にいる罪人を、キリストが十字架で解放されたことを伝えるために、今も教会は存在しているのです。それは本当に良い知らせ、福音です。教会はそれ以来、キリストの命じた通りに福音を宣教しています。

 

 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。

 ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント5章19-21節)

 

 キリストは教会に使命を与え、オリーブ山から昇天しました。その様子は「使徒の働き」1章に書かれています。それから教会は世界中に福音を伝え始め、迫害されながらもローマ帝国の国教になりました。今に至るまで、キリストの福音は、多くの国々に影響を与えて来ました。

 しかし、これですべてが終わったのではありません。教会の福音宣教はある時までの期間限定です。それはキリストが再び来られる再臨の時までです。天に昇ったキリストがいつか帰ってくるのです。それがキリストの再臨です。

 神の計画は、まず人を罪から救うことから始まり、最後に、この世界全体の回復にまで至ります。この世の支配者だった人間がサタンの支配下に入ってしまった時、この世全体もその支配に入ってしまったからです。以来、この地球全体も神から離れた状態です。神は人を奪還するだけでなく、この世も奪還し、回復させます。それが神の国の到来です。

 ではその時、どんなことが起こるのでしょう? その意味は何でしょう? それを学ぶ前に、もうひとつの「時のしるし」を学びましょう。

 

【イスラエルの再興】に続く